プロフィール

れいわ新選組
衆議院東京25区総支部長

よだかれん(依田花蓮)

1972年愛知県豊橋市出身、埼玉県北足立郡吹上町・沖縄県那覇市・愛知県名古屋市育ちの52歳です。男性から女性へと性別の移行し、職業も、ミュージカル俳優、ダンサー、行政書士、新宿区議会議員、国会議員秘書へと移行してきました。そんな私のこれまでの人生、ご覧いただけたら幸いです。

多様性と安心が原動力…

よだかれんのキャッチフレーズといえば、「多様性はパワーだ!」。この言葉の意味するところは、私たち一人一人がカタチの違う多様な安心感を求めていて、それぞれがその安心を手に入れることが、他の人にとっての安心にもつながり、社会がより豊かにアップデートされてゆくということです。

性的少数者や女性、障がい者、ひとり親、ご高齢者、在日コリアンや被差別部落出身者、アイヌや沖縄の人々、そして日本で暮らす外国の人々。男性優位社会だからこそ苦しめられている男性、夢や希望を持てなくされている若者たち・・そしてあなた。

あなたが安心できる社会は、みんなにとっても安心できる社会。だから、あなたが求める安心を教えて欲しい。そして一緒に実現したい。

これまでも愚直に訴えてきたこの思いを、行政書士・新宿区議会議員・国会議員秘書として積んできた実績を最大限に活かし、国会の場で実行に移します!

国会に、新しい風を。
皆さんの思いをよだ かれんに託して下さい。

よだかれん物語 かれんの根っこ

写真:母と私。

愛知県豊橋市にて、
三⼈兄弟の次男坊として⽣誕

秀亮(しゅうすけ)と命名されました。

2歳頃庭の⽔がめに落ち(笑)、兄が発⾒して同居していた祖⺟に知らせてくれたおかげで⼀命を取り留めたそうです。兄には頭が上がりません・・。

写真:左側が兄。白目むいてます(笑)

埼玉県北足立郡吹上町
(現在は鴻巣市)へ転居

今度は家の近くを流れる小川へ転落しました(笑)。

またもや兄が、畑作業をしていたご近所さんに知らせてくれて助けられました。溺れている間に、泳いでいたカエルと目が合ったという不思議な?!記憶があります。

吹上町立やなぎ幼稚園入園

連絡帳に、「“私女よ~”と言っては女っぽい行動を取っています。とても心配です・・ご家庭ではいかがですか?」と書かれているのを最近発見いたしました。れいこ先生、ご心配的中です(笑)。

吹上小学校入学

入学式の日、高学年の女の子達に囲まれ“可愛い可愛い!!”と大騒ぎになったのを誇らしく(?)覚えております。野球が好きだったわけでもないはずですが、なぜか少年野球チームに所属しておりました。父や兄の影響だと思われます。他の子たちは白の野球ソックスを履いていたのに、私は黄色の可愛いハイソックスを履いて練習に参加していました。

初めて買ったレコードは、小学校3年生の頃でしょうか、聖子ちゃんの「チェリーブラッサム」でした。今でもCDを買い、コンサートに足を運んで応援を続けています!

自意識過剰な少年期を送り、親戚の集まりで「秀ちゃんはよっちゃん(いとこ)にそっくりだねぇ」と好意的に言われたにもかかわらず、「僕は誰にも似てなんかないもーーーッん!!」などと泣き叫び、親族団欒の席を凍りつかせたりしていました。

可愛げはないかも知れませんが、なんとなく大物になりそうな予感は感じさせるエピソードです。

金城町の石畳にて。左から、うっすら見えている兄・私・弟・母・モコ

左が私、右が弟。渡嘉敷島かな?

小学6年生に進級する際、沖縄県那覇市立上間小学校へ転入学

カルチャーショックの連続の日々でした。
喜屋武、玉城、豊見城、渡嘉敷・・・日直当番で誰の名前も読めずに愕然といたしました。皆さんは読めますか?

基地問題、日の丸・君が代問題、不発弾撤去等、戦争のつめ痕に直に触れる思春期を過ごし、人格形成に大きな影響を受けました。

中一のときの意見発表会か何かの写真だと思います。

中三の証明写真。ひぇ~ッ!!

那覇市立寄宮中学校入学

念願のバレーボール部に入部、一日も練習を休まないほど熱中し、青春のすべてを捧げました。にもかかわらず最後の大会直前に負傷し、悔いの残る形で部活を終えることとなってしまいました。
寝不足と、ストレッチをせずに試合に臨んだことが原因での負傷。

大いなるトラウマとなり、今でも睡眠をしっかり取ることとストレッチを入念に行う(例えば街宣活動を行う前でも)ことに執念を燃やします。

「あの時ちゃんと睡眠を取っていれば、ちゃんとストレッチしていれば・・」
あんな後悔は二度としたくありません。

また、バスケット部男子に囲まれてボッコボコにされたという苦い思い出もございます。あれはなんだったのでしょうか・・未だに原因不明です・・。

そんなトラウマもありつつ、中学の三年間は、意見発表大会や駅伝大会で学校代表になったり、成績が学年1位になったりと輝かしい思い出がいっぱいです。特に中学3年生の時には、本気で勉強を始めると口からよだれが垂れても気付かないほどの集中力を発揮していました。運も強く、当時大人気だった『週間少年ジャンプ』等の懸賞ではたくさんの商品をゲットしたりもしていました。

乗りに乗っていたという感じ。

また、聖子ちゃんを応援しつつ、おニャン子クラブに熱狂し、こニャン子クラブ(ファンクラブ会員)の一員となって熱く応援しておりました。「夕やけニャンニャン」、ご存知の方は同世代のアラフィフさんですね。
人生初のコンサートは中2の時に行った渡辺美里さん。一緒に行ったおニャン子仲間が感動のあまり美里ファンに寝返ったため、絶交(笑)。

沖縄県立開邦高等学校入学

沖縄初の進学校ということで、0時限~7時限制(8時間授業!)が取られていました。中学時代の優等生から一気に転落し、物理(?)のテストにおいて人生最初で最後の0点を取りました。先生が何を言っているのか全くもって理解出来ませんでした・・悪夢です。

おニャン子クラブの解散コンサートで東京に行くため、家の近所の居酒屋さんにて人生初のアルバイトに挑戦しました。確か時給は350円。

そのお店で、これまた人生で初めて女装者に出会い、そういった人々の存在を知りました。店長始め、回りの大人の反応でその方たちが社会的にどんな立場に置かれているのかを肌感覚で悟りました。

店長がさも憎々しげに、「気持ち悪ィな~」と客席から見えないところで口にしていた時の、あの怖ろしい表情は忘れられません。

高校1年生の終わり、名古屋へ転校する時、空港に沢山の友人が見送りに来てくれて号泣しました。飛行機の窓から小さく見えた、一生懸命手を振る友人の姿は大切な青春の宝物です。

愛知県立日進西高等学校転入学

転校初日に、校門で生活指導教師に捕まりました。

学帽を被らずに登校した所、「学帽は制服の一部だ。その学帽を被らないということは制服の一部であるズボンも脱げるということだな?脱げ!」と怒鳴られました。ズボンを脱がされることは免れましたが、校則通りの白い靴下ではないとお気に入りの可愛らしい靴下を脱がされ、まだまだ寒い4月の朝、転校初日に裸足で校門で正座させられるというまさかの幕開けとなりました。

そんな幕開けに象徴されるように、残念ながらこの2年間に良い思い出はほぼありません。
嫌な事は続くもので、高3の4月、自転車で登校中に車にはねられました。
左側頭部強打、左鎖骨複雑骨折により手術、左足首骨折と全治3ヶ月の重傷を負いました。

さらにさらに大好きだった男子に告白し、「はぁ?男が男に何を言っとんだぁ?!」とピシャリはねつけられ、大学受験も失敗し、思い出すのも怖ろしいほど散々な日々でした。

代々木ゼミナール名古屋校入学

人気講師の講義に感動し、予備校に行くのが楽しみで仕方ありませんでした。あれはまさに講義という名のエンターテインメント!前のクラスが終わる前からドアの前で陣取り、扉が開くと同時に猛ダッシュして良席確保に努めておりました。そのかいあって成績はうなぎ上りで、偏差値が20以上アップいたしました。もとが低かったということでもありますが・・。

青山学院大学法学部私法学科入学

勉強もせずに遊びとバイトに明け暮れておりましたが、生涯の友と、今も人生を共に歩むパートナーとの出会いを得ましたので、悔いはありません。上京して親の目から解放され、勢いに乗ってゲイであることを周囲にカミングアウトし始めてもおりました。

就職活動は特にせず(恥ずかしながらアナウンサー試験だけはいくつか受け、左の写真はそのために撮っていた証明写真ですね)、卒業後はアルバイトをしながら芸能界を目指すと決意しました。

新宿住友三角ビル49階 ギャルソン・パブ にてショーパブデビュー

人生で初めて、月給を頂いて舞台に出るという場を得ました。
右も左も分からない、ド素人のくせに生意気盛りな青年を、偉大な先輩達が可愛がって下さり、根気よく育てて下さいました。

会社にも毎日毎日様々なレッスンを受けさせて頂いたりと大変お世話になったのですが、契約更新時の交渉が不調に終わり賃金の未払いが発生したため、当時生まれたばかりの「小額訴訟」制度を利用して、自分で会社を訴えました。
労働基準監督署に相談に行ったり、内容証明で会社の担当者とやりあったり、20代半ばでよくそんな大それたことをやったなぁと我ながら感心します。

とはいえ、そこはまだまだ若輩者。裁判所からの帰り道、近くの日比谷公園のベンチに座り込み、「俺、何やってるんだろう・・」とポタリ涙をこぼしたという繊細な一面ものぞかせていました。

新宿二丁目ラ・セゾンへ

小さなお店ながらも、パワフルで趣向を凝らしたショーを生み出している人気店でした。営業時間が夜の9時から朝の5時までと完全に昼夜が逆転した生活で、お休みは週に一度というハードな毎日でした。

残念ながら現在は閉店しておりますが、楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと・・たくさんの思い出がギュッと詰まった濃密な2年間でした。

蜷川幸雄演出「火の鳥」出演

商業演劇デビュー作。アンサンブルとはいえ、初めての作品が世界の蜷川の舞台であったことは幸運です。会場は埼玉スーパーアリーナで共演はSPEEDの今井絵里子さん・いかりや長介さん等、こけら落とし公演ということでとても豪華な作品でした。

「ロミオとジュリエット」出演

博多座にて。牧瀬里穂さん、山本耕治さん、夏木まりさん等、豪華な共演陣でした。

一ヶ月博多に滞在していたのですが、自分の殻に閉じこもって周りの皆さんと上手にコミュニケーションが取れず、共演者とトラブルを起こしたり・・穴があったら入りたいような黒歴史です。

関係者の皆さま、その節は大変ご迷惑をおかけしました・・・。

ミュージカル 美少女戦士セーラームーン 出演

今でいう2.5次元ミュージカルのはしりですね。初めての役付ということもあり、私の代表作品です。池袋サンシャイン劇場をホームにして、全国各地を巡業いたしました。今や大スターとなった城田優君や多部未華子ちゃんも共演。歌・踊り・芝居に加え、憧れだったレコーディングやイベントMCなど、本当にたくさんの貴重な経験をさせて頂きました。

出演から20年以上経ちますが、未だに海外からメッセージが届いたり、根強い“セラミュ”ファンの方々が私の動向にも関心を寄せて下さいます。
あの頃観劇に通ってくれていた小さな子どもが立派な大人に成長し、私の政治活動のお手伝いに来て下さったりして感動いたします。

売れない役者期間

仕事がほとんど取れず、アルバイトをしながら小劇場作品に出演したり、映画やテレビでエキストラに毛が生えたような役や歌番組のバックコーラス等の活動を細々と行っておりました。

写真はその頃 端役で出たテレビドラマ内の、“劇場に貼られているスターのポスター”という設定の小道具のために、わざわざ撮影して下さった1枚。さすがNHKだなとそのこだわりに感動しました。

うわぁ・・なかなかなインパクトですが、一生懸命綺麗になろうとしていました。愛おしいです。

六本木金魚にてショーパブ界復帰

それまで自分はゲイ(男性のココロとカラダで、男性と恋愛する同性愛者)だと思って生きておりましたが、フィリピンからいらしている先輩ニューハーフダンサーさんに「あなたは女性になるために生まれてきたのに何をしているの?人生一度しかないのよ」と衝撃のお言葉を頂戴し、人生が一変しました。

毎日毎日呪文のように言われ続けたから・・というわけではありませんが(笑)遅ればせながら自分の本当の気持ちに目覚め始めました。

否、本当の気持ちを閉じ込めて蓋をしていたのだということに気がつき始めました。

「本当は女性として生きてみたい。でも自分は身長180cm、足のサイズも28cm。顔も大きいし手も大きい。こんな自分が女性の格好をしたら笑いものになってしまう・・・。

ゲイでいればイケメンということでちやほやして貰えるし、言わなければ自分がゲイだということは世間の人には分からないから、からかわれたり避けられたりすることもない。親や親族にカミングアウトする必要もない。このままゲイでいる方がよいのだ」
そうごまかして、心の奥深くに封印していたパンドラの箱。その箱が開けられてしまったとう感覚です。女性として生きたいという思いは日ごと強くなり、その思いがピークとなった頃、ちょうど36歳の誕生日がやってきました。

36歳の誕生日にホルモン療法開始

誕生日というのは人生のことを色々考えますよね。
「これまで36年間、ゲイとして十分楽しく幸せに生きてこられた。これからは、例え笑いものになってもいいから自分の心に素直に生きよう!!女性としての人生を始めよう!!」

そう決意し、その日のうちにその先輩に教えてもらった病院へ行き、カウンセリングを受け、ホルモン療法を始めました。

豊胸手術&性別適合手術、そして花蓮へ

ホルモン療法を開始して半年後、豊胸手術と性別適合手術を受けました。(二つの手術の間隔を1週間しか空けなかったという強行軍・・両方一気に受けるというツワモノもいらっしゃるようですが、個人的にはたっぷりとゆとりをもって計画を立てることをオススメいたします。)

豊胸手術は近所の美容形成外科で行ない、性別適合手術については世界最高水準と評されるタイでのオペを予定しておりましたが、生まれ故郷の愛知県豊橋市でオペをしてくれるという医師を紹介され、生まれた場所で女性に生まれ変わるというドラマ性を選び豊橋市にてオペを受けました。

そしてこの頃から「花蓮」と名乗るようになりました。

両親に女性としての名前を付けて欲しいと伝えましたがパートナーに付けて貰いなさいと言われてしまい、結局 かれん という音の響きはパートナーが付けてくれて、漢字は自分で当てはめました。

「泥沼でも美しい花を咲かせる蓮の花のように、どのような世の中になったとしても美しい心を持っていたい」

そんな願いを込めました。

戸籍上の性別も女性に

家庭裁判所に申し立てをして、戸籍上の性別も女性となりました。

これは2004年に施行された『性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律』という法律のおかげです。おもいやりだけではなく、法律という形で守ってもらえることの大切さを痛感いたします。

六本木金魚を卒業し、舞台活動再会。

女性として改めて芸能界へ挑戦しようと、再びアルバイトをしながらの売れない役者期間へと突入いたしました。

「新宿ミッドナイトベイビー」出演

共演者は、いしだ壱成さん、浅野温子さん、山崎邦正さん等これまた豪華な作品でした。

オーディションも女性部門で受けておりましたし、稽古場では女性更衣室で着替えたりしていたにもかかわらず、劇場入りするとまさかの男性役者の大部屋に名前が入っていて衝撃を受けました。

もちろん役者陣も皆さん抗議して下さり女性役者大部屋入りとなりましたが・・一般的な認識ってそんなものなんだなと悟り、気にもせずに笑いのネタにしておりました。

あれから15年が経ち、一般的な認識もだいぶ変わって来ているでしょうね。

母が子宮頸がんに

母が子宮頸がんとなり、手術のために一月ほど入院生活となりました。幸い?!売れていない女優ということで時間がたっぷりとあった私は、付っきりで母の身の回りのお世話をすることが出来ました。手術は成功し、再発もなく今も元気にしてくれています。

この入院をきっかけとして、それまでかたくなに“秀亮(しゅうすけ)”と私のことを呼んでいた母が、「一緒に時間を過ごしてみて、私が知らない間にあなたが立派に女性になったのだということが分かったよ」と、“花蓮(かれん)”と呼んでくれるようになりました。

ハローワークへ通い続ける

母の入院時、私は入院保証人となれませんでした。売れない女優は無職と同じ。40近くにもなって親の入院保証人にもなれないなんてと心底自分に呆れました。

これまでは自分の夢ばかり追い続けてきたけれど、これからは親の保証人になれるような、社会的信用のある仕事に就きたいと考えるようになりました。

母が退院して生活が落ち着いてくるのを見届けると私は東京に戻り、直ぐに芸能事務所を辞め、社会的信用のある仕事といえばやはり会社員であろうと、ハローワークに通い始めました。

進路相談や面接の練習やパソコンの訓練を行いながら応募エントリーを行うのですが、私は面接にすら辿り着けませんでした。40歳近くで会社員の経験もなく、何の資格も持っていない上に、元男性。こんな条件では私が採用側だったとしても他の応募者を選びます。すると、ある職員の方がこんなことを仰っいました。

「あなたのような方は、独立開業出来る資格を取るとよいかも知れませんね」。

目からウロコでした。そんな方法もあるのか・・自分なりに調べる中、行政書士という国家資格を見つけました。年齢・性別・国籍・学歴を問わず、試験に合格して登録すれば誰でも開業出来て一生働くことができる。

これだ!! 行政書士を目指すことを決意いたしました。

六本木香和にて再々度ショーパブ界へ復帰

ちょうどその決意を固めた頃に、思いがけず、昔の同僚から六本木香和(ろっぽんぎかぐわ)で一緒に踊らないかと声をかけて貰いました。

日本最大級のショーレストランで和を前面に打ち出した斬新なショーで世界中からお客様がいらっしゃる有名店でした。お話を聞きに行ってみると、Wキャスト制を取っているために週3日の出演でよいということで、試験勉強にも力を入れたい私にはもってこいの条件。

週半分は舞台に立ち、週半分は勉強するという日々が始まりました。

登録式を終え、念願のバッジを受け取り喜んでいる様子。素直に、嬉しかったです。

要約筆記者団体・登要会名古屋様にお招き頂いた際の集合写真

行政書士よだかれん事務所 開設

勉強を始めてから2年間を要しましたが、2013年1月に行政書士試験に合格いたしました。

「踊る行政書士」として、六本木香和でのショーダンサーと行政書士、二足のわらじで走り始めました。当初は西新宿のレンタルオフィスでの営業でしたが、2016年秋に高田馬場の現在のオフィスへと移転いたしました。

主な取り扱い業務は相続関係・飲食店営業許可・在留資格許可取得のお手伝いです。

この資格を得たことでどこへでも堂々と出て行けるようになり、一気に世界が広がりました。

想定外のこととして、時代の流れもあってのことですが、LGBT研修・講演をご依頼頂くようになったということがあります。

士業団体、企業、更には教育委員会等公的機関からもご依頼頂きます。

LGBT当事者というだけではなく、行政書士という国家資格実務者であるという信頼がこうしたご依頼を生んでいるのだと思います。

私は人生を変えてくれたこの行政書士という資格に、心から感謝しております。

沖縄県名護市辺野古にて。

念願の台湾の花蓮市にて。

松園別館の高台からの景色。この海の彼方が沖縄県です。

行政書士よだかれん事務所 開設

沖縄県というのは第二次世界大戦において日本で唯一地上戦が行われたという悲しい歴史を有する場所で、現在においても国内米軍専用施設の70%が設置されおり、辺野古を巡る問題は連日ニュース等で報道されています。

街中を米兵が闊歩し、まだまだ戦争のつめ跡が残り不発弾撤去で学校がお休みになるというようなことが身近に起こっていたこの地で、小学6年生から高校1年生という人生で最も多感な思春期を過ごしたということが、私を“戦争と平和” “国家と国民”というようなことが非常に気になる人間へと育てたように思います。

権力の暴走を防ぎ、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義という憲法の理念が実現された社会を築きたい。それが私の願いです。

いつの頃からかぼんやりと政治家となってその実現の力の一つになりたいと考えるようになっておりましたが、2017年9月に台湾の花蓮市を訪れたことで、ややはっきりした輪郭でその思いが自分の中に浮かび上がって参りました。

実は、女性へと生まれ変わり花蓮と名乗るようになってから、「その名前は台湾の花蓮市から取ったの?」とたびたび問われるようになりました。全く知らなかった土地なので、いつかは訪れてみたいなぁと小さな目標を持つようになっていたのですが、2017年9月、ついに念願かなって訪問することが出来ました。

風光明媚な観光地だという程度の知識で訪れたのですが、実は花蓮市は、1895年から始まった50年に渡る日本統治の幕開けとなった土地であり、特に1911年〜1924年頃には国策として日本の貧困地帯から多くの農民が移民としてやって来た土地なのだということを訪れてから知ることとなりました。

台湾の中で最初に日本人移民村が出来たのが花蓮市であり、第二次世界大戦中には重要な軍事拠点にもなっていたのだそうです。

そして花蓮市から沖縄へと特攻隊が飛び立っていたということも教えられ、特攻隊員が最後の晩餐を取っていたという「松園別館」という施設を訪れました。小高い丘の上に在るので、そこから海が見渡せます。その海のはるか彼方は沖縄です。

その丘に立った瞬間、私はこう感じました。
「私は、ここから沖縄に飛び立っていった特攻隊員の生まれ変わりなのではないだろうか?」

私が生まれたのは1972年、占領されていたアメリカから、沖縄が日本に返還された年です。
沖縄が日本に返還された年に生まれた私が、見えない力に導かれて多感な思春期を沖縄で過ごし、そして男性から女性へと生まれ変わって花蓮という名前になり、そのことで花蓮市という街の存在を教えられ、自分と同じ名前だからと興味を持って観光で花蓮にやって来て、思いがけず特攻隊として沖縄へと旅立って行った方々が最後の晩餐を取ったという場所を教えられ、その丘から沖縄へとつながる海を眺めている…

なんという巡り合わせなのでしょうか。

先述のように、私は戦争と平和、国家と国民、そういったものにとても敏感です。
そんな事を気にせずに生きていられたらどれだけ楽だろうと思う事もよくあります。

でも、私にはそれが出来ないのです。
これは、私が沖縄の海に散った特攻隊の方の生まれ変わりだからだと考えるとつじつまが合うような気がするのです。

世界の平和に役立つ人間になれと、その方がいつも耳元で囁いてくれている。
…どうなのでしょう。そうかも知れないし、そうではないのかも知れません。
でも、どうであったとしても、せっかく生まれて来た以上、少しでも世界の平和に貢献出来る人間になりたいと思います。

有名であったり権力を手にしていなくても出来る事を、出来る限りして行きたいです。いつも思っている事ではありますが、花蓮を訪れた事でより強く激しく心に誓うようになりました。

更に驚くべきことに、台湾から日本へ帰国すると、留守番電話に某党関係者より出馬の打診メッセージが入っていたのです。2017年9月当時は、衆院選が行われると噂されていた頃です。実現には至りませんでしたが、これは何かの思し召しだと、政治家になり世界平和に貢献するという目標が夢物語ではないのだと、背中を押される出来事となりました。

そこで2017年いっぱいで六本木香和を卒業し、いつかの出馬に備え政治や選挙の勉強を始めることにいたしました。

前列左から三番目が私。

六本木香和卒業

約7年間という、人生で一番長くいた大切な場所です。長くいた分、パフォーマンスのことでも、接客のことでも、MCのことでも、人間関係のことでも、書ききれないほど本当にたくさんのことがありました。

ですがこの7年間で得たものは何かと問われれば、パッとこの言葉が浮かびます。

“悔しい気持ちをパワーに変えて、己を進化させる能力”

この能力はこれからも私の人生を大きく切り開いてくれると信じています。

8月から街頭に立ち、新宿区民の皆さまに自分の思いを届けております。

新宿区議選に向け活動開始を決意

新宿区議選に向け活動開始を決意

6月、あらゆるデモを一律に規制することにつながる公園使用許可基準の変更が行われたのです。
デモの出発地点の公園周辺の町会から騒音に対する苦情があったためという理由であり、ヘイトスピーチやヘイトデモ対策ではないということで、私としては疑問を感じる政策でした。

自身が暮らし・そして働く街で、おかしいなと思うことが行われる。私の目指す、“憲法の理念が実現された社会”から遠のくような政策が取られる。

ならば、それはおかしいのではないかと区民の意思決定の場で声を大にして訴えたい。国政のことばかりを考えてきた私の背中がドンと押され、新宿区議会に声を届けようと活動を開始いたしました。

新宿区議選挙にて当選

新宿区議会議員(無所属ひとり会派「ちいさき声をすくいあげる会」)として活動

れいわ新選組より 第26回参議院議員選挙 全国比例代表へ立候補、落選

初めての国政選挙ということで、右も左も分からず北海道から沖縄まで全国を飛び回りました。れいわ新選組全国比例代表立候補者9人中7位、14821票獲得で落選。

新宿区長選立候補、惜敗。

ありがたいことに区民の皆さんから出馬要請を受けての立候補で、7つもの政党の野党統一候補として挑むという貴重な経験をさせて頂きました。「かれんさんが参院選に落選したのは残念だったけれど、新宿区民にとっては天の恵みだ」という口説き文句は忘れられません。

木村英子参議院議員秘書就任

重度障がい当事者の木村議員がLGBT当事者の私に、「この世にはびこるあらゆる差別を一緒に無くしてゆこう」と声をかけて下さいました。国会の現場で次の選挙を見据えて修行させて頂けるのは夢のようにありがたいことです。木村議員の思いに応えられるよう、精進して参ります。

以上が、かれんの根っこです。長い文をお読みいただきありがとうございました。